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荒汐部屋を平成14年に興して以来,その玄関に掲げられてきた「荒汐部屋」の看板。以来8年を経て,弟子たちの成長とともに,その白い木目も黒くなりゆき,遂にはその「荒汐部屋」文字さえ読みづらいほどに色づいてまいりました。そこでこのたび,今一度,これまでと同様,近藤江南先生に,新しい看板を書いていただくこととなりました。[ご参考: 看板への想い 1]
(写真:荒汐部屋の新看板。荒汐自身が育てる寄せ植えと,おかみによる季節の玄関飾りも映える)
これまでの看板は,荒汐部屋の文字通りゼロからの出発以来の部屋の顔でした。一方,今度の看板は,関取1名含む13人の弟子とともに飛躍をめざす,正念場に挑む荒汐部屋の顔。お書きいただいた近藤江南先生に,その新しい看板にこめられた思いを伺いました。
近藤:荒汐親方が初めてこの看板を目にされたとき,「ずいぶんやさしい雰囲気ですね」とおっしゃったんです。どうですか。私もそう感じます。特にこれまでの看板と比べて見ると一目瞭然で,これまでのは,厳しさを感じさせるものでしたが,今回のはやさしい印象がするのではないでしょうか。
―― 何かお考えがあって,雰囲気を変えられたのですか?
近藤:いいえ。これは,今の私自身が表われた,そういうことだと思います。以前の看板を書いたときは,自分自身,今よりずっと攻撃的だったと思います。それは年齢的にも,社会的にも,ここでやってやるぞという,そんな時期だったと思います。そんな時期を過ごした,今,やはり当時とはすこし違った心もちになっていると感じています。
たとえば,書を教えるときにしてもそう。私が教えると言うのは,字というより,心構えなんですが,以前はもっと厳しく指導していたと思います。ただ,これでいいのかな,何か通じ合えていないな,というようなことを感じるようになってくると ― だんだん自分の生まれ育ってきた時代とは違う感覚をもった子ども・若者と出会うわけですから ― そのたびに,少しずつ自分も変わっていくわけです。これはきっと親方も同じだと思います。弟子への指導も,稽古場では変わらないにしろ,普段の接し方など,部屋を興した当時とはまったく違うものになっているんじゃないですか。
(写真上:以前の看板。写真下:現在の看板)
―― 部屋のそんな変化が看板にも表われているような気がします。
近藤:親方とは同い齢ですし,リンクするところがあるのかもしれませんね。ただ,これからまさに昇り調子でグングン伸びていくべき部屋の看板として,これでいいのか,という思いもあります。 とはいっても,じゃあ怖い感じ・きつい感じを出せばいいのかといえばそうではない。今の私自身と違うものは出ないんです。今の自分に反して意図したことはたいてい失敗する。もちろん,筆を取るまでに,あれこれ考えます。とても考えます。でも,実際,書くとなると自分の持ってるものしかでないんです。相撲も同じじゃないでしょうか。
だからといって,じゃあひたすら虚心にのみ書けばいいのかといえば,そうでもない。もう半ば本能的に,これでいいのかな,と常に思ってしまうわけです。ですから,こうやってみよう,こうすればいいだろう,そういった実験的な,疑念との自分とのやりとりをずっと続けている,そんな気がします。
そうした自分とのやりとりというのは,何も何日何年といった時間単位だけでなしに,この看板1枚,4文字を書く間でも同じことなんです。一画一画書くあいだにも,心情が変化する。四文字の中にドラマや気の流れがあるんです。
まず特に一画目は緊張します。ただ,これはいつものこと。そして最初の一画目に筆をつけた瞬間「これではダメだ」と思う。そしてこれもおそらくほぼすべての書家がすべての書でそう思うんじゃないでしょうか。それでいいんです。最初から肩に力が入っていてはダメ。力士が仕切りの中で,気持ちを高めているように,筆を進めるに連れて高ぶりを感じていく ― 逆に,途中,瞬間でも「うまくいった」と思うとその書はそこで終わってしまう。あとの筆に意味がなくなってしまいますから ― 。この看板でも,書き出すと,これじゃいけないという思いが常に沸いてきて,材木屋さんの声「失敗したら削りますよ」が脳裏を駆け巡る。しかし,そこでくじけては一生に一枚も書けない。なので気力をもってどんどん良くしていくように気持ちをもっていくわけです。
滅多にないことですが,時に,無我夢中で最後まで自分で気づかない間に書ききってしまうようなことがあります。これは案外いい書なんです。しかし,それは結果だけであって,やはり書くプロセスというものを,私は大切にしたいと思います。
―― そう言われると,だんだん筆が進むにしたがって,いかにもやさしい「荒汐」の二文字から,強さを感じさせる「部屋」の二文字へと,時間が進んでいるように見えてきます。
近藤:最近,字を書く上で思うのですが,一体,字とは何なのだろう。いわずもがなことばを書きとめたものが字なのですが,書きとめられることばというものは,確かに記号として分節化されたデジタルな体系としてあるのでしょう。しかし,そのデジタルを書き記す,字を書くという行為,これはもっと連続的なアナログな営みであって,端的に言えば,字を書くというのは「声を描いている」んじゃないか,そんな気がするんです。
たとえば,平安に書かれた かな などを見ると,それはほとんど音符のようなものなんですね。どう読んでいるのかが音として聞こえてくるようなそんな文字なんです。漢字があるのにわざわざかなを作ったのは,自分たちの声を,この地でこの私たちが発する声を,表現するには,借り物の字ではできない,なんとか自分の声を描きたい,そんなところだったんじゃないかと考えたくなります。これは歴史的検証に耐える話としてじゃなくて,あくまで私の想いとしてね。
―― なるほど。この看板も,まさに今の近藤先生が「あらしおべや」をどう声として表現したいかが,描かれたものだということですね。
近藤:はい。そうした視点から見ると,この看板も,まず息をぐっと吸って,静かに,軽やかに,自然に,しかし奥底に力をこめて「あらしおべや」と声を発したその時間が表現できているような気がします。どうですか。前回の看板とはそこが全く違う点です。
前回は,当時小学生だった力(りき)くん(現,力山)のことは知っていても(※習字の先生でした),相撲部屋のことなんてまったく知らなかったから,自分のイメージだけで,勢いと勝手な思いで書いたところがある。確かに看板にもそんな雰囲気があります。部屋を興したばかりの当時としては,まさにそういう表現でぴったりしていたと思います。ですが,今は相撲部屋というのがどんなか,弟子を育てる相撲部屋というところについて,いくらかでもわかってきた。部屋への思いもずいぶん変わりました ― ですから今回は,前回と比べて,ずっと書くことが怖かった。
そんな一言では言い表せないような強い思いが,静かな声となって,こうしてこの看板の文字として出てきたのだと思います。
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